P--969 P--970 P--971 #1改邪鈔 改邪鈔 #21 (1) 一 今案の自義をもて名帳と称して祖師の一流をみたる事 曾祖師黒谷の聖人の 御製作選択集に のへらるゝかことく 大小乗の 顕密の諸宗に おの〜師資相 承の 血脈あるかことく いままた 浄土の一宗において おなしく 師資相承の血脈 あるへしと[云々]  しかれは 血脈をたつる肝要は 往生浄土の 他力の心行を 獲得する時節を 治定せしめて かつは仏 恩を 報尽せんかためなり かの心行を 獲得せんこと 念仏往生の願成就の 信心歓喜 乃至一念等の  文をもて 依憑とす このほか いまたきかす 曾祖師{源―空} 祖師{親―巒} 両師御相伝の 当教において 名 帳と号して その人数を しるすをもて 往生浄土の指南とし 仏法伝持の 支証とすといふことは こ れおそらくは 祖師一流の 魔障たるをや ゆめ〜 かの邪義をもて 法流の正義と すへからさるも のなり もし即得往生住不退転等の 経文をもて 平生業成の 他力の心行 獲得の時剋を きゝたかへ て 名帳勘録の 時分にあたりて 往生浄土の正業 治定するなんとはし きゝあやまれるにやあらん  たゝ別の要ありて 人数をしるさは そのかきりあり しからすして 念仏修行する行者の 名字をしる P--972 さんからに このとき 往生浄土のくらゐ あに治定すへけんや この条 号するところ 黒谷本願寺  両師御相承の 一流なりと[云々] 展転の説なれは もしひとのきゝあやまれるをや ほゝ信用するに た らすといへとも こと実ならは 付仏法の外道歟 祖師の御悪名と いひつへし もとも おとろきおも ひ たまふところなり いかに行者 名字をしるし つけたりといふとも 願力不思議の 仏智をさつく る 善知識の実語を 領解せすんは 往生不可なり たとひ名字を しるさすといふとも 宿善開発の機 として 他力往生の師説 領納せは 平生をいはす 臨終を論せす 定聚のくらゐに住し 滅度にいたる へき条 経釈分明なり このうへに なにゝよりてか 経釈をはなれて 自由の妄説を さきとして わ たくしの自義を 骨張せんや おほよす 本願寺の聖人 御門弟のうちにおいて 二十余輩の 流々の学 者達 祖師の御口伝に あらさるところを禁製し 自由の妄義を 停癈あるへきものをや なかんつくに  かの名帳と号する書において 序題をかき あまさへ 意解をのふと[云々] かの作者において たれのと もからそや おほよす 師伝にあらさる 謬説をもて 祖師一流の説と称する条 冥衆の照覧に違し 智 者の謗難を まねくもの歟 おそるへし あやふむへし #22 (2) 一 絵系図と号しておなしく自義たつる条謂なき事 それ聖道浄土の 二門について 生死出過の要旨を たくはふること 経論章疏の 明証ありといへとも  自見すれは かならす あやまるところ あるによりて 師伝口業をもて最とす これによりて 意業に P--973 おさめて 出要をあきらむること 諸宗のならひ 勿論なり いまの真宗においては もはら自力をすて ゝ 他力に帰するをもて 宗の極致とするうへに 三業のなかには 口業をもて 他力のむねをのふる とき 意業の憶念帰命の 一念おこれは 身業礼拝のために 竭仰のあまり 瞻仰のために 絵像木像の 本尊を あるひは彫刻し あるひは画図す しかのみならす 仏法示誨の恩徳を 恋慕し仰崇せんかため に 三国伝来の 祖師先徳の 尊像を図絵し 安置すること これまたつねのことなり そのほかは 祖 師聖人の 御遺訓として たとひ念仏修行の 号ありといふとも 道俗男女の形体を 面々各々図絵して  所持せよといふ御おきて いまたきかさるところなり しかるにいま 祖師先徳の おしへにあらさる  自義をもて 諸人の形体を 安置の条 これ竭仰のため歟 これ恋慕のためか 不審なきにあらさるもの なり 本尊なをもて 観経所説の 十三定善の 第八の像観よりいてたる 丈六八尺 随機現の形像をは  祖師あなかち御庶幾 御依用にあらす 天親論主の 礼拝門の論文 すなはち 帰命尽十方 無礙光如来 をもて 真宗の御本尊と あかめまし〜き いはんや その余の人形において あにかきあかめ まし ますへしや 末学自己の義 すみやかに これを停止すへし #23 (3) 一 遁世のかたちをことゝし異形をこのみ裳無衣を着し黒袈裟をもちゐるしかるへからさる事 それ出世の法においては 五戒と称し 世法にありては 五常となつくる 仁義礼智信を まもりて 内 心には 他力の不思議を たもつへきよし 師資相承 したてまつる ところなり しかるにいま 風聞 P--974 するところの 異様の儀においては 世間法をは わすれて 仏法の義はかりを さきとすへしと[云々]  これによりて 世法を放呵する すかたと おほしくて 裳無衣を着し 黒袈裟をもちゐる歟 はなはた  しかるへからす 末法灯明記{伝教大師諱最澄製作}には 末法には けさ変して しろくなるへしと みへたり しか れは 末世相応の袈裟は 白色なるへし 黒袈裟においては おほきに これにそむけり 当世都鄙に流 布して 遁世者と号するは 多分一遍房他阿弥陀仏等の 門人をいふ歟 かのともからは むねと後世者 気色を さきとし 仏法者とみへて 威儀をひとすかた あらはさんと さため振舞歟 わか大師聖人の 御意は かれにうしろあはせなり つねの御持言には われはこれ 賀古の教信沙弥{この沙弥の様禅林の永観の十因にみへたり}の  定なりと[云々] しかれは 縡を専修念仏 停癈のときの 左遷の勅宣に よせまし〜て 御位署には  愚禿の字を のせらる これすなはち 僧にあらす 俗にあらさる儀を表して 教信沙弥の ことくなる へしと[云々] これによりて たとひ牛盗人とは いはるとも もしは善人 もしは後世者 もしは仏法者 と みゆるやうに ふるまふへからすと おほせあり この条 かの裳無衣黒袈裟を まなふともからの  意巧に 雲泥懸隔なるものをや 顕密の諸宗 大小乗の教法に なを超過せる 弥陀他力の宗旨を 心底 にたくはへて 外相には その徳を かくしまします 大聖権化の 救世観音の再誕 本願寺{親―鸞}の 御 門弟と 号しなから うしろあはせに ふるまいかへたる 後世者気色の 威儀をまなふ条 いかてか  祖師の冥慮に あひかなはんや かへす〜 停止すへきものなり P--975 #24 (4) 一 弟子と称して同行等侶を自専のあまり放言悪口することいはれなき事 光明寺の大師の 御釈には もし念仏するひとは 人中の好人なり 妙好人なり 最勝人なり 上人なり  上上人なりと のたまへり しかれは そのむねにまかせて 祖師のおほせにも それかしは またく弟 子一人ももたす そのゆへは 弥陀の本願を たもたしむるほかは なにことを おしへてか 弟子と号 せん 弥陀の本願は 仏智他力の さつけたまふ ところなり しかれは みなともの同行なり わたく しの弟子に あらすと[云々] これによりて たかひに 仰崇の礼儀を たゝしくし 昵近の芳好を なす へしとなり その義なくして あまさへ 悪口をはく条 こと〜く 祖師先徳の 御遺訓を そむくに あらすや しるへし #25 (5) 一 同行を勘発のときあるひは寒天に冷水をくみかけあるひは炎旱に艾灸をくはふるらのいはれなき事 むかし役の優婆塞の 修験のみちを もはらにせし 山林斗藪の苦行 樹下石上の坐臥 これみな 一機 一縁の方便 権者権門の 難行なり 身をこの門に いるゝともからこそ かくのこときの 苦行をは  もちゐけにはんへれ さらは出離の要路にあらす ひとへに 魔界有縁の僻見なり 浄土の真宗において は 超世希有の正法 諸仏誠証の秘懐 他力即得の直道 凡愚横入の易行なり しかるに 末世不相応の 難行を ましへて 当今相応の 他力執持の易行を けかさんこと 総しては 三世諸仏の 冥応にそむ き 別しては 釈迦弥陀二尊の 矜哀をわすれたるににたり おそるへし はつへし ならくのみ P--976 #26 (6) 一 談議かくるとなつけて同行知識に鉾楯のときあかむるところの本尊聖教をうはひとりたてまつるいはれ なき事 右祖師{親―巒}聖人 御在世のむかし ある御直弟 御示誨のむねを 領解したてまつらさるあまり 忿結し て 貴前をしりそきて すなはち 東関に下国のとき ある常随の 一人の御門弟 この仁に さつけらる ゝところの 聖教の外題に 聖人の御名を のせられたるあり すみやかに めしかへさるへきをやと[云々]  ときに 祖師のおほせにいはく 本尊聖教は 衆生利益の方便なり わたくしに 凡夫自専すへきにあら す いかてかたやすく 世間の財宝なんとのやうに せめかへし たてまつるへきや 釈親鸞といふ 自 名のりたるを 法師にくけれは 袈裟さへの風情に いかなる 山野にも すくさぬ 聖教をすて たて まつるへきにや たとひ しかりといふとも 親鸞またく いたむところにあらす すへからく よろこ ふへきにたれり そのゆへは かの聖教 すてたてまつるところの有情 蠢々のたくひにいたるまて か れにすくはれ たてまつりて 苦海の沈没を まぬかるへし ゆめ〜この義 あるへからさることなり と おほせことありけり そのうへは 末学として いかてか 新義を骨張せんや よろしく停止すへし #27 (7) 一 本尊ならひに聖教の外題のしたに願主の名字をさしおきて知識と号するやからの名字をのせおくしかる へからさる事 この条 おなしく 前段の篇目に あひおなしきもの歟 大師聖人の 御自筆をもて 諸人にかきあたへ  P--977 わたしまします 聖教をみたてまつるに みな願主の名を あそはされたり いまの新儀のことくならは  もとも聖人の御名を のせらるへき歟 しかるに その義なきうへは これまた非義たるへし これを案 するに 知識の所存に 同行あひそむかんとき わか名字を のせたれはとて せめかへさん料の はか りこと歟 世間の財宝を 沙汰するににたり もとも停止すへし #28 (8) 一 わか同行ひとの同行と簡別してこれを相論するいはれなき事 曾祖師{源―空}聖人の 七箇条の御起請文にいはく 諍論のところには もろ〜の煩悩おこる 智者これを 遠離すること百由旬 いはんや 一向念仏の行人に おいてをやと[云々] しかれは たゝ是非を糺明し 邪 正を問答する なをもて かくのことく 厳制におよふ いはんや人倫をもて もし世財に類する 所存 ありて 相論せしむる歟 いまたそのこゝろをえす 祖師聖人御在世に ある御直弟のなかに つねにこ の沙汰ありけり そのときおほせにいはく 世間の妻子眷属も あひしたかふへき 宿縁あるほとは 別 離せんとすれとも 捨離するにあたはす 宿縁つきぬるときは したひむつれんとすれとも かなはす  いはんや 出世の同行等侶においては 凡夫のちからをもて したしむへきにもあらす はなるへきにも あらす あひともなへといふとも 縁つきぬれは 疎遠になる したしましとすれとも 縁つきさるほと は あひともなふにたれり これみな 過去の因縁に よることなれは 今生一世のことにあらす かつ はまた 宿善のある機は 正法をのふる善知識に したしむへきによりて まねかされとも ひとをまよ P--978 はすましき 法灯には かならす むつふへきいはれなり 宿善なき機は まねかされとも をのつから  悪知識にちかつきて 善知識には とをさかるへき いはれなれは むつひらるゝも とをさかるも か つは知識の瑕瑾も あらはれ しられぬへし 所化の運否 宿善の有無も もとも能所ともに はつへき ものをや しかるに このことはりに くらきかいたすゆへ歟 一旦の我執を さきとして 宿縁の有無 をわすれ わか同行 ひとの同行と 相論すること 愚鈍のいたり 仏祖の照覧を はゝからさる条 至 極つたなきもの歟 いかん しるへし #29 (9) 一 念仏する同行知識にあひしたかはすんはその罰をかうふるへきよしの起請文をかゝしめて数箇条の篇目 をたてゝ連署と号するいはれなき事 まつ数箇条のうち 知識をはなるへからさるよしのこと 祖師聖人 御在世のむかし より〜 かくの こときの義を いたすひとありけり 御制のかきりに あらさる条 過去の宿縁に まかせられて その 御沙汰なきよし 先段にのせおはりぬ また子細かの段に違すへからす つきに 本尊聖教を うはひと りたてまつらんとき おしみたてまつるへからさるよしのこと またもて 同前 さきに違すへからす  つきに堂をつくらんとき 義をいふへからさるよしのこと おほよす 造像起塔等は 弥陀の本願に あ らさる所行なり これによりて 一向専修の行人 これをくはたつへきにあらす されは祖師聖人 御在 世のむかし ねんころに 一流を面授口決したてまつる 御門弟達 堂舎を営作するひと なかりき た P--979 ゝ道場をは すこし人屋差別あらせて 小棟をあけて つくるへきよしまて 御諷諫ありけり 中古より このかた 御遺訓に とをさかる ひと〜の世となりて 造寺土木のくはたてに およふ条 おほせに 違するいたり なけきおもふところなり しかれは 造寺のとき 義をいふへからさるよしの怠状 もと より あるへからさる 題目たるうへは これにちなんたる誓文 ともにもて しかるへからす すへて こと数箇条に およふといへとも 違変すへからさる儀において 厳重の起請文を 同行にかゝしむるこ と かつは祖師の遺訓にそむき かつは宿縁の有無をしらす 無法の沙汰ににたり 詮するところ 聖人 御相伝の正義を 存せんともから これらの今案に混して みたりに 邪義にまよふへからす つゝしむ へし おそるへし #210 (10) 一 優婆塞優婆夷の形体たりなから出家のことくしゐて法名をもちゐるいはれなき事 本願の文に すてに十方衆生の ことはあり 宗家の御釈に また道俗時衆とらあり 釈尊四部の遺弟に  道の二種は 比丘比丘尼 俗の二種は 優婆塞優婆夷なれは 俗の二種も 仏弟子のかはにいれる条 勿 論なり なかんつくに 不思議の仏智をたもつ 道俗の四種 通途の凡体においては しはらくさしおく  仏願力の不思議をもて 無善造悪の凡夫を 摂取不捨したまふときは 道の二種か 往生のくらゐ 不足 なるへきにあらす その進道の階次をいふとき たゝおなし座席なり しかるうへは かならすしも 俗 の二種を しりそけて 道の二種を すゝましむへきに あらさるところに 女形俗形たりなから 法名 P--980 をもちゐる条 本経としては 往生浄土の うつはものに きらはれたるににたり たゝ男女善悪の凡夫 を はたらかさぬ 本形にて 本願の不思議をもて むまるへからさるものを むまれさせたれはこそ  超世の願ともなつけ 横超の直道とも きこへはんへれ この一段 ことに曾祖師{源―}ならひに 祖師{親―}已 来 伝授相承の眼目たり あへて聊爾に 処すへからさるものなり #211 (11) 一 二季の彼岸をもて念仏修行の時節とさたむるいはれなき事 それ浄土の一門について 光明寺の和尚の 御釈をうかゝふに 安心起行作業の三ありと みへたり そ のうち 起行作業の篇をは なを方便のかたと さしおいて 往生浄土の正因は 安心をもて 定得すへ きよしを 釈成せらるゝ条顕然なり しかるに わか大師聖人 このゆへをもて 他力の安心を さきと しまします それについて 三経の安心あり そのなかに 大経をもて 真実とせらる 大経のなかには  第十八の願をもて 本とす 十八の願にとりては また願成就をもて 至極とす 信心歓喜乃至一念をも て 他力の安心と おほしめさるゝゆへなり この一念を 他力より 発得しぬるのちは 生死の苦海を  うしろになして 涅槃の彼岸に いたりぬる条 勿論なり この機のうへは 他力の安心より もよほさ れて 仏恩報謝の 起行作業は せらるへきによりて 行住坐臥を論せす 長時不退に 到彼岸の謂あり  このうへは あなかち 中陽院の衆聖 衆生の善悪を 決断する 到彼岸の時節を かきりて 安心起行 等の正業を はけますへきに あらさる歟 かの中陽院の 断悪修善の決断は 仏法疎遠の衆生を 済度 P--981 せしめんかための 集会なり いまの他力の 行者においては あとを娑婆にとをさかり 心を浄域に  すましむるうへは なにゝよりてか この決判におよふへきや しかるに 二季の時正を えりすくりて  その念仏往生の時分とさためて 起行をはけますともから 祖師の御一流にそむけり いかてか 当教の 門葉と号せんや しるへし #212 (12) 一 道場と号して簷をならへ墻をへたてたるところにて各別々々に会場をしむる事 おほよす 真宗の本尊は 尽十方無礙光如来なり かの本尊所居の浄土は 究竟如虚空の土なり こゝを もて 祖師の教行証には 仏はこれ不可思議光仏 土はまた無量光明土なりと のたまへる これなり  されは天親論主は 勝過三界道と判したまへり しかれとも 聖道門の 此土の得道といふ 教相にかは らんために 他土の往生といふ 廃立を しはらく さたむるはかりなり 和会するときは 此土他土一 異に 凡聖不二なるへし これによりて 念仏修行の道場とて あなかち 局分すへきにあらさる歟 し かれとも 廃立の初門にかへりて いくたひも 為凡をさきとして 道場となつけて これをかまへ 本 尊を安置し たてまつるにてこそあれ これは行者集会のためなり 一道場に来集せんたくひ 遠近こと なれは 来臨の便宜不同ならんとき 一所をしめても ことのわつらひ ありぬへからんには あまたと ころにも 道場をかまふへし しからさらんに おいては 町のうち さかひのあひたに 面々各々に  これをかまへて なんの要かあらん あやまて ことしけくなりなは その失ありぬへきもの歟 そのゆ P--982 へは 同一念仏 無別道故なれは 同行はたかひに 四海のうち みな兄弟のむつひを なすへきに か くのことく 簡別隔略せは をの〜確執のもちゐ 我慢の先相たるへきをや この段 祖師の御門弟と  号するともからのなかに 当時さかんなりと[云々] 祖師聖人 御在世のむかし かつて かくのことく  はなはたしき 御沙汰なしと まのあたり うけたまはりしことなり たゝことにより 便宜にしたかひ て わつらひなきを 本とすへし いま謳歌の説に おいては もとも停止すへし #213 (13) 一 祖師聖人の御門弟と号するともからのなかに世出世の二法について得分せよといふ名目を行住坐臥につ かふこゝろえかたき事 それ得分といふ畳字は 世俗よりおこれり 出世の法のなかに 経論章疏をみるに いまたこれなし し かれとも おりにより ときにしたかひて ものをいはんときは このことは 出来せさるへきにあらす  謳歌のことくんは 造次顛沛 このことはをもて 規謨とすと[云々] 七箇条の 御起請文には 念仏修行 の 道俗男女 卑劣のことはをもて なましゐに 法門をのへは 智者にわらはれ 愚人をまよはすへし と[云々] かの先言をもて いまを案するに すこふる このたくひ歟 もとも 智者にわらはれぬへし  かくのこときのことは もとも頑魯なり 荒涼に 義にもあたらぬ 畳字をつかふへからす すへからく  これを停止すへし #214 (14) 一 なまらさる音声をもてわさと片国のなまれるこゑをまなんて念仏するいはれなき事 P--983 それ五音七声は 人々生得のひゝきなり 弥陀浄国の 水鳥樹林の さへつるおと みな宮商角徴羽に  かたとれり これによりて 曾祖師聖人の わか朝に応たれまし〜て 真宗を弘興のはしめ こゑ仏事 をなす いはれあれはとて かの浄土の依報の しらへをまなんて 迦陵頻伽の ことくなる 能声をえ らんて 念仏を修せしめて 万人のきゝを よろこはしめ 随喜せしめたまひけり それよりこのかた  わか朝に 一念多念の声明 あひわかれて いまにかたのことく 余塵をのこさる 祖師聖人の御ときは  さかりに 多念声明の法灯 倶阿弥陀仏の余流 充満のころにて 御坊中の禅襟達も 少々これを もて あそはれけり 祖師の御意巧としては またく念仏のこはひき いかやうに ふしはかせを さたむへし といふ おほせなし たゝ弥陀願力の不思議 凡夫往生の 他力の一途はかりを 自行化他の 御つとめ としまし〜き 音声の御沙汰 さらにこれなし しかれとも とき世の風儀 多念の声明をもて ひと おほく これをもてあそふについて 御坊中のひとひと 御同宿達も かの声明に こゝろをよするにつ いて いさゝか これを稽古せらるゝ ひと〜ありけり そのとき 東国より 上洛の道俗等 御坊中 逗留のほと みゝにふれける歟 またく聖人のおほせとして 音曲をさためて 称名せよといふ 御沙汰 なし されは ふしはかせの 御沙汰なきうへは なまれるをまねひ なまらさるをもまなふへき 御沙 汰に およはさるものなり しかるにいま 生得になまらさるこゑをもて 生得になまれる 坂東こゑを  わさとまねひて 字声をゆかむる条 音曲をもて 往生の得否を さためられたるににたり 詮するとこ P--984 ろ たゝおのれかこゑの 生得なるにまかせて 田舎のこゑは ちからなく なまりて念仏し 王城のこ ゑは なまらさる おのれなりの こゑをもて 念仏すへきなり こゑ仏事をなすいはれも かくのこと くの 結縁分なり 音曲さらに報土往生の真因にあらす たゝ他力の一心をもて 往生の時節を さため まします条 口伝といひ 御釈といひ 顕然なり しるへし #215 (15) 一 一向専修の名言をさきとして仏智の不思議をもて報土往生をとくるいはれをはその沙汰におよはさるい はれなき事 それ本願の三信心といふは 至心信楽欲生これなり まさしく 願成就したまふには 聞其名号 信心歓 喜 乃至一念とらとけり この文について 凡夫往生の得否は 乃至一念発起の時分なり このとき 願 力をもて 往生決得すといふは すなはち 摂取不捨のときなり もし観経義によらは 安心定得といへ る 御釈これなり また小経によらは 一心不乱ととける これなり しかれは 祖師聖人 御相承弘通 の 一流の肝要 これにあり こゝをしらさるをもて 他門とし これをしれるをもて 御門弟のしるし とす そのほか かならすしも 外相において 一向専修行者のしるしを あらはすへきゆへなし しか るを いま風聞の説のことくんは 三経一論について 文証をたつね あきらむるにおよはす たゝ自由 の妄義をたてゝ 信心の沙汰を さしおきて 起行の篇をもて まつ雑行をさしおきて 正行を修すへし と すゝむと[云々] これをもて 一流の至要とするにや この条 総しては 真宗の癈立にそむき 別し P--985 ては 祖師の御遺訓に違せり 正行五種のうちに 第四の称名をもて 正定業とすくりとり 余の四種を は 助業といへり 正定業たる 称名念仏をもて 往生浄土の正因と はからひつのるすら なをもて  凡夫自力の くはたてなれは 報土往生 かなふへからすと[云々] そのゆへは 願力の不思議を しらさ るによりてなり 当教の肝要 凡夫のはからひをやめて たゝ摂取不捨の大益を あふくものなり 起行 をもて 一向専修の名言を たつといふとも 他力の安心 決得せすんは 祖師の御己証を 相続するに  あらさるへし 宿善もし開発の機ならは いかなる 卑劣のともからも 願力の信心を たくはへつへし  しるへし #216 (16) 一 当流の門人と号するともから祖師先徳報恩謝徳の集会のみきりにありて往生浄土の信心においてはその 沙汰におよはす没後葬礼をもて本とすへきやうに衆議評定するいはれなき事 右聖道門について 密教所談の 父母所生身 速証大覚位とら いへるほかは 浄刹に往詣するも 苦域 に堕在するも 心の一法なり またく五薀所成の 肉身をもて 凡夫速疾に 浄刹のうてなに のほると は談せす 他宗の性相に異する 自宗の廃立 これをもて規とす しかるに 往生の信心の沙汰をは 手 かけもせすして 没後喪礼の 助成扶持の一段を 当流の肝要とするやうに 談合するによりて 祖師の 御己証も あらはれす 道俗男女 往生浄土の みちをもしらす たゝ世間浅近の 無常講とかやのやう に 諸人おもひなすこと こゝろうきことなり かつは本師聖人の おほせにいはく 某{親―}閉眼せは  P--986 賀茂河にいれて うほにあたふへしと[云々] これすなはち この肉身を かろんして 仏法の信心を 本 とすへきよしを あらはし ましますゆへなり これをもておもふに いよ〜喪葬を 一大事とすへき にあらす もとも停止すへし #217 (17) 一 おなしく祖師の御門流と号するやから因果撥無といふことを持言とすることいはれなき事 それ三経のなかに この名言を もとむるに 観経に 深信因果の文あり もしこれをおもへる歟 おほ よす 祖師聖人 御相承の一義は 三経ともに 差別なしといへとも 観無量寿経は 機の真実をあらは して 所説の法は 定散をおもてとせり 機の真実といふは 五障の女人悪人を本として 韋提を対機と したまへり 大無量寿経は 深位の権機をもて 同聞衆として 所説の法は 凡夫出要の 不思議をあら はせり 大師聖人の御相承は もはら大経にあり 観経所説の 深信因果のことはを とらんこと あな かち 甘心すへからす たとひかの経の名目を とるといふとも 義理参差せは いよ〜いはれなかる へし そのゆへは かの経の深信因果は 三福業の随一なり かの三福の業は また人天有漏の業なり  なかんつくに 深信因果の道理によらは あに凡夫往生の のそみをとけんや まつ十悪において 上品 に犯するものは 地獄道に堕し 中品に犯するものは 餓鬼道に堕し 下品に犯するものは 畜生道に  おもむくといへり これ大乗の 性相のさたむるところなり もしいまの凡夫 所犯の現因によりて 当 来の果を感すへくんは 三悪道に堕在すへし 人中天上の果報 なをもて五戒十善 またからすは いか P--987 てか のそみをかけんや いかにいはんや 出過三界の 無漏無生の 報国報土に むまるゝ道理 ある へからす しかりといへとも 弥陀超世の大願 十悪五逆 四重謗法の機の ためなれは かの願力の強 盛なるに よこさまに 超截せられたてまつりて 三途の苦因を なかくたちて 猛火洞燃の業果を と ゝめられ たてまつること おほきに 因果の道理にそむけり もし深信因果の 機たるへくんは うふ るところの悪因の ひかんところは 悪果なるへけれは たとひ弥陀の本願を 信すといふとも その願 力は いたつらことにて 念仏の衆生 三途に堕在すへきをや もししかりといはゝ 弥陀五劫思惟の本 願も 釈尊無虚妄の金言も 諸仏誠諦の証誠も いたつらこと なるへきにや おほよす 他力の一門に おいては 釈尊一代の説教に いまたその例なき 通途の性相をはなれたる 言語道断の 不思議なりと いふは 凡夫の報土に むまるゝといふをもてなり もし因果相順の理にまかせは 釈迦弥陀諸仏の 御 ほねおりたる 他力の別途 むなしくなりぬへし そのゆへは たすけましまさんとする 十方衆生たる 凡夫 因果相順の理に 封せられて 別願所成の報土に 凡夫むまる へからさるゆへなり いま報土得 生の機に あたへまします 仏智の一念は すなはち仏因なり かの仏因に ひかれて うるところの  定聚のくらゐ 滅度にいたるといふは すなはち仏果なり この仏因仏果においては 他力より成すれは  さらに凡夫のちからにて みたすへきにあらす また撥無すへきに あらす しかれは なにゝよりてか  因果撥無の機 あるへしと いふことをいはんや もとも この名言 他力の宗旨を もはらにせらるゝ  P--988 当流にそむけり かつて うかゝひしらさるゆへ歟 はやく停止すへし #218 (18) 一 本願寺の聖人の御門弟と号するひと〜のなかに知識をあかむるをもて弥陀如来に擬し知識所居の当体 をもて別願真実の報土とすといふいはれなき事 それ自宗の正依経たる 三経所説の 廃立においては ことしけきによりて しはらくさしおく 八宗の 高祖と あかめたてまつる 龍樹菩薩の所造 十住毘婆沙論のこときんは 菩薩阿毘跋致を もとむるに  二種の道あり 一には難行道 二には易行道 その難行といふは 多途あり ほゝ五三をあけて 義の こゝろを しめさんといへり 易行道といふは たゝ信仏の因縁をもて 浄土にむまれんと 願すれは  仏力住持して すなはち 大乗正定の聚に いれたまふといへり 曾祖師黒谷の先徳 これをうけて 難 行道といふは 聖道門なり 易行道といふは 浄土門なりと のたまへり これすなはち 聖道浄土の二門 を 混乱せすして 浄土の一門を 立せんかためなり しかるに 聖道門のなかに 大小乗権実の 不同 ありといへとも 大乗所談の極理と おほしきには 己身の弥陀 唯心の浄土と 談する歟 この所談に  おいては 聖のためにして 凡のためにあらす かるかゆへに 浄土の教門は もはら凡夫引入の ため なるかゆへに 己身の観法もおよはす 唯心自説もかなはす たゝとなりのたからを かそふるににたり  これによりて すてに別して 浄土の一門をたてゝ 凡夫引入のみちを立せり 龍樹菩薩の所判 あにあ やまりあるへけんや 真宗の門においては いくたひも 廃立をさきとせり 廃といふは 捨なりと釈す  P--989 聖道門の 此土の入聖得果 己身の弥陀 唯心の浄土等の 凡夫不堪の 自力の修道を すてよとなり  立といふは すなはち 弥陀他力の信をもて 凡夫の信とし 弥陀他力の行をもて 凡夫の行とし 弥陀 他力の 作業をもて 凡夫報土に往生する 正業として この穢界をすてゝ かの浄刹に往生せよと し つらひたまふをもて 真宗とす しかるに 風聞の邪義のことくんは 廃立の一途をすてゝ 此土他土を わけす 浄穢を分別せす 此土をもて浄土と称し 凡形の知識をもて かたしけなく 三十二相の仏体と  さたむらんこと 浄土の一門において かゝる所談 あるへしともおほへす 下根愚鈍の短慮 おほよす  迷惑するところなり 己身の弥陀 唯心の浄土と談する 聖道の宗義に 差別せるところ いつくそや  もとも荒涼といひつへし ほのかにきく かくのことくの 所談の言語を ましふるを 夜中の法門と号 すと[云々] またきく 祖師の御解釈 教行証に のせらるゝところの 顕彰隠密の義といふも 隠密の名 言は すなはち この一途を 顕露にすへからさるを 隠密と釈したまへりと[云々] これもてのほかの僻 韻歟 かの顕彰隠密の名言は わたくしなき御釈なり それはかくのことく こはみたる 邪義にあらす  子細多重あり ことしけきによりて いまの要須に あらさるあひた これを略す 善知識において 本 尊のおもひを なすへき条 渇仰のいたりにおいては その理 しかるへしといへとも それは 仏智を 次第相承しまします 願力の信心 仏智より もよほされて 仏智に帰属するところの 一味なるを 仰 崇の分にてこそあれ 仏身仏智を 本体とおかすして たゝちに 凡形の知識をおさへて 如来の色相と  P--990 眼見せよと すゝむらんこと 聖教の施設をはなれ 祖師の口伝にそむけり 本尊はなれて いつくのほ とより 知識は出現せるそや 荒涼なり 髣髴なり たゝ実語をつたへて口授し 仏智をあらはして 決 得せしむる恩徳は 生身の如来にも あひかはらす 木像ものいはす 経典くちなけれは つたへきかし むるところの恩徳を みゝにたくはえん行者は 謝徳のおもひを もはらにして 如来の代官とあふいて  あかむへきにてこそあれ その知識のほかは 別の仏なしといふこと 智者にわらはれ 愚者をまよはす へき謂 これにあり あさまし〜 #219 (19) 一 凡夫自力の心行をおさへて仏智証得の行体といふいはれなき事 三経のなかに 観経の至誠深心等の 三心をは 凡夫のおこすところの 自力の三心そとさため 大経所 説の 至心信楽欲生等の 三信をは 他力より さつけらるゝところの 仏智とわけられたり しかるに  方便より真実へつたひ 凡夫発起の三心より 如来利他の信心に 通入するそと おしへおきまします  祖師{親―}聖人の御釈を 拝見せさるにや ちかころ このむねをそむひて 自由の妄説をなして しかも 祖師の 御末弟と称する この条ことにもて おとろきおほゆる ところなり まつ能化所化をたて 自 力他力を対判して 自力をすてゝ 他力に帰し 能化の説をうけて 所化は信心を定得するこそ 今師御 相承の 口伝には あひかなひはんへれ いまきこゆる 邪義のことくは 煩悩成就の凡夫の 妄心をお さへて 金剛心といひ 行者の三業所修の 念仏をもて 一向一心の行者とすと[云々] この条 つや〜 P--991 自力他力の さかひをしらすして ひとをもまよはし われもまよふもの歟 そのゆへは まつ金剛心成 就といふ 金剛はこれたとへなり 凡夫の迷心において 金剛に類同すへき謂なし 凡情はきはめて不成 なり されは 大師の御釈には たとひ清心を おこすといへとも みつに画せるかことしと[云々] 不成 の義 これをもてしるへし しかれは 凡夫不成の迷情に 令諸衆生の仏智 満入して 不成の迷心を  他力より成就して 願入弥陀界の 往生の正業 成するときを 能発一念喜愛心とも 不断煩悩得涅槃と も 入正定聚之数とも 住不退転とも 聖人釈しましませり これすなはち 即得往生の時分なり この 娑婆生死の 五薀所成の肉身 いまたやふれすといへとも 生死流転の 本源をつなく 自力の迷情 共 発金剛心の 一念にやふれて 知識伝持の仏語に 帰属するをこそ 自力をすてゝ 他力に帰するともな つけ また即得往生とも ならひはんへれ またく わか我執をもて 随分に 是非をおもひかたむるを  他力に帰すとはならはす これを金剛心とも いはさるところなり 三経一論 五祖の釈以下 当流{親―}聖 人 自証をあらはしまします 御製作教行信証等に みへさるところなり しかれは なにをもてか ほ しいまゝに 自由の妄説をのへて みたりに 祖師一流の口伝と 称するや 自失誤他のとか 仏祖の知 見に そむくもの歟 おそるへし あやふむへし #220 (20) 一 至極末弟の建立の草堂を称して本所とし諸国こそりて崇敬の聖人の御本廟本願寺をは参詣すへからすと 諸人に障礙せしむる冥加なきくはたての事 P--992 それ慢心は 聖道の諸教にきらはれ 仏道をさまたくる魔と これをのへたり わか真宗の高祖 光明寺 の大師 釈してのたまはく 驕慢弊懈怠 難以信此法とて 驕慢と弊と懈怠とは もてこの法を 信する こと かたしとみへたれは 驕慢の自心をもて 仏智をはからんと擬する 不覚鈍機の 器としては さ らに仏智無上の他力を きゝうへからされは 祖師の御本所をは 蔑如し 自建立の わたくしの在所を は 本所と自称するほとの 冥加を存せす 利益をおもはさるやから 大驕慢の妄情をもては まことに いかてか 仏智無上の他力を 受持せんや 難以信斯法の御釈 いよ〜おもひあはせられて 厳重なる もの歟 しるへし #1改邪鈔  [本云]   [右此抄者祖師本願寺聖人[親鸞]面授口決于先師大網如信法師之正旨報土得生之最要也 余壮年之往日忝従受三代[黒谷本願寺   大網]伝持之血脈以降鎮所蓄二尊興説之目足也 遠測宿生之値遇倩憶当来之開悟仏恩之高大宛超于迷盧八万之巓師徳之深   広殆過于蒼瞑三千之底 爰近曾号祖師御門葉之輩中構非師伝之今案自義謬黷権化之清流恣称当教自失誤他[云々] 太不可   然不可不禁遏 因茲為砕彼邪幢而挑厥正灯録斯名曰改邪鈔而已]    [建武丁丑第四暦季商下旬廿五日染翰訖不図相当曾祖聖人遷化之聖日 是知不違師資相承之直語応尊可喜矣]                                         [釈宗昭]{六十八}